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【雛祭りの由来】3月3日は桃の節句、女の節句【雛人形の歴史】

3月3日 雛祭り 女の節句 由来 年中行事
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「明かりをつけましょぼんぼりに〜、お花をあげましょ桃の花〜♪」もうすぐ桃の節句「雛祭り」です。というわけで、今日はその由来や歴史、言い伝えなどをお勉強してみました。雛祭りにまつわる人に離したくなるお話もありますのでどうぞご参考に。

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流し雛

私が雛祭りについて考えた時、真っ先に浮かんだのは「流し雛」でした。しかし「流し雛」と「雛祭り」はそれぞれ独自の歴史を持っていました。「雛祭り」の由来は、複雑多岐に渡る難解なもののようです。

流し雛は流し人形

「流し雛」はその名こそ「雛」とついていますが、元は「人形(ひとがた)」に息を吹きかけたり、身体を撫でたりして、災厄を人形に移して川に流すという民間信仰、民俗行事です。しかしその風習は紫式部の「源氏物語」の中にも登場するほどで、相当古くから日本にあった信仰だったと思われます。

全国に残る流し雛

現在も全国のあちらこちらに「流し雛」の風習は残っています。有名なのは鳥取県の用瀬村(もちがせそん/現在の用瀬市)です。毎年、旧暦の3月3日に当たる日に用瀬市の千代川(せんだいがわ)で「流し雛」の行事が行われています。ちなみに今年平成28年は4月9日(土曜日)に行われます。用瀬市には「もちがせ流しびなの館」があり、流し雛の歴史や文化的資料、雛人形にまつわるものが多く展示されていますので、「流し雛」行事の後に寄ってみるのも良いですね。

公式サイト「流し雛の館」もあります。

和歌山県の淡嶋神社(あわしまじんじゃ)でも「流し雛」が行われています。3月3日までに全国から集まった人形たちが船に乗せられて海へ流されます。白木の船に乗せられて遠く離れて行く光景、一度見に行ってみたいです。

淡嶋神社の流し雛
淡嶋神社の流し雛/和歌山

雛人形のルーツ

日本には古くから、紙で出来た「紙雛(かみびな/かみひいな)」、他に「天児(あまがつ)」や「這子(はうこ)」などの人形があり、これらを元に「雛人形」が生まれたのではないかと言われています。

紙雛(かみびな/かみひいな)

紙で出来た「紙雛」は、奈良時代頃から、災厄や病を背負わせる「形代(かたしろ)」とし、人の身代わりとして川に流すなど「祓え(はらえ)」の儀式で使われていました。紙で出来ているのだから単純に「紙人形」と呼んでも良さそうですが、「紙雛」と呼んだことには意味があるようです。

日本には言葉や発音に「願い」や「意味」を込める「言霊文化」があります。「かみ」は「紙」ですが「神」にも通じます。そして「雛」は「小さいもの、愛らしいもの」という意味もあり、「かみひな」という名前にすることで「神雛」という意味を込めたのではないでしょうか。

天児(あまがつ)

「天児(あまがつ)」は広辞苑によると「子供の傍に置き、形代(かたしろ)として凶事をうつし負わせるために用いた人形」だそうです。形状は十字に組んだ木製の台に丸い頭を付け、目鼻口髪を付けて衣服を着せた人形です。「天児」という名前から想像するに「天に守ってもらえるように」という願いが込められているのではないかという意見があります。

実は、皇紀2666年(平成18年/西暦2006年)9月6日に誕生された秋篠宮家の悠仁親王殿下に献上された品「守り刀」に加え、「犬筥(いぬばこ/出産・生育の守り/後の犬張り子)」とともに「天児」もあり、古くからの伝統品の一つであることが判ります。

這子(はうこ)

「天児」と同時期に庶民の間で作られていたのが「這子(はうこ)」です。全身が白い布で作られており、衣は着ていません。丸い顔に目鼻口が書かれ、お下げ髪をしています。「這子」は「天児」と同様に庶民にとっての子供の守り人形でしたが、子供の抱き人形でもあり、玩具の一つでした。その形状は飛騨高山の「さるぼぼ」と似ているそうです。

飛騨高山のさるぼぼ
飛騨高山のお土産「さるぼぼ」

雛人形の歴史

最も古い雛は「立雛(たちびな/たてひいな)」で、「天児」と「這子」がその元になったとするのが一般的な考えとされていますが、その根拠となるような資料は見つかっていません。とは言え、可愛らしくも男の子のような「天児」とお下げ髪で女の子のような「這子」は、それぞれが男雛と女雛の元のように見えます。

「立雛」の登場後、「坐雛(すわりびな)」も現れますが、時代の流れとともにその姿や衣も変化します。現代の私たちの知る「雛人形」とほぼ変わらなくなるのは江戸時代です。

江戸時代の雛人形

戦乱も落ち着いて安定期に入った江戸時代、雛人形も完成型となっていきますが、この頃はまだ子供のためというより、女性のための雛人形でした。というのも、江戸中期の絵本、石川流宣(いしかわとものぶ)の「大和耕作絵抄(やまとこうさくえしょう)」や浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の描いた「月次遊(つきなみのあそび)」では、武家や上流の町人が雛祭りを楽しむ姿を描いているからです。

石川流宣(いしかわとものぶ)「大和耕作絵抄(やまとこうさくえしょう)」より「雛遊」
石川流宣(いしかわとものぶ)「大和耕作絵抄(やまとこうさくえしょう)」より「雛遊」

大型、華美化していく雛人形

武家や上流階級に浸透していくことで、雛人形はどんどん豪華になります。顔は能面のように美しくなり、衣装も刺繍や金糸を用いたより華やかなものになり、更に頭に「天冠(てんかん)」も被るようになります。

雛市開催

江戸で雛市が開かれはじめ流行し、ついには京都や大坂、名古屋でも開かれるようになるほど、雛人形は全国的なものになりました。この頃「雛人形」は庶民の文化として定着していました。しかしここまで大きな存在になるとその「華美さ」に眉をひそめる動きも出て、「禁令」が出されるようになります。

慶安の御触書

恐らく競うようにお金をかけた雛人形が作られるようになっていたのでしょう。現存するこの時代の雛人形は繊細な細工を施された雛人形が多くあります。

三代将軍徳川家光の出した「慶安の御触書(おふれがき)」には既に「雛道具の蒔絵(まきえ)、金銀の箔押しは禁止」と記載されていたそうです。その傾向は続き、倹約を推奨する「享保の改革」が行われている真っ最中の、私たちの良く知る暴れん坊将軍(笑)新さんこと八代将軍徳川吉宗の時代では、更に強く禁止されていたのではないでしょうか。

もちろんこういった豪華な雛人形は武家や上流町民の間で流通しており、庶民の間では、手頃な価格の雛人形でお祝いをしていました。

次郎左衛門雛(じろざえもん/じろうざえもんびな)の登場

「引目(ひきめ)」「鉤鼻(かぎはな)」の今までとは趣の違う雛が京都で生まれます。それが京都の人形師雛屋岡田次郎左衛門(おかだじろうざえもん)が作った「次郎左衛門雛」です。今までのどちらかと言うと面長で能面のような雛人形とは違う、丸い顔立ちで愛らしさと高貴さのあるこの人形は忽ち人気を集めました。そしてこの雛人形をきっかけに、衣装の考証なく曖昧に想像で作られていた衣装を着けていた雛人形に「より事実に基づいた正確な衣装を」と京都の公家が作らせたのが「有識雛(ゆうしきびな)」です。ただしこの雛人形は特定の公家の間で流通し、庶民の目に触れる事はありませんでした。

古今雛(こきんびな)

広辞苑によると「古今雛」は安永(西暦1772年から1781年)の頃、江戸の人形師原舟月(はらしゅうげつ)が作った内裏雛です。今まで栄華を極めていた江戸の人形師達が京都の「次郎左衛門雛」に刺激を受け、対抗するために新たな雛人形を考え、作り出したんですね。

「古今雛」は、水晶やガラス玉で作られた「玉眼」で、髪も一本ずつ植える植毛、更に衣装も「有識雛」ほどではないものの、当時の正装に近い衣装を着せた写実的で美しい雛です。この「古今雛」は江戸から京都、大坂に渡って人気を博し、現代の雛人形の原型となりました。

流せなくなった雛

何百年もの時を重ねて、美しく華麗になっていった雛人形達は、最早、川に流せるようなものではありませんでした。この結果、雛人形は飾って楽しむものとして定着したものと、「災厄」や「病」を移して川に流す比較的扱いやすい紙製の「流し雛」が今も残っているのです。

何故3月3日なのか

雛人形のルーツはわかりました。次はどうして「3月3日」が「雛祭り」の日になったのかを調べました。こちらも少し深く掘り下げる必要があって長くなりますが、なるべく簡潔に説明するので今暫くおつきあいください。

中国から伝来した文化

日本は古代中国からの文化的影響を受けています。その中の「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ/いんみょうごぎょうせつ)」や「暦(こよみ)」は、5、6世紀ごろの日本に仏教とともに伝来して、今ではすっかり日本の文化となって息づいています。

陰陽五行説とは

「陰陽五行説」は「陰陽説(いんようせつ:万物は陰と陽に分けられる)」と「五行説(ごぎょうせつ:この世の物は木、火、土、水、金で分けられる)」が結びついて生まれた思想です。

日本独自の学問「陰陽道」

「陰陽道」は春秋戦国時代に多く存在した諸子百家たち(孟子、老子など)の生み出した思想の一つです。それが日本にも伝わったのですが、日本歴史大事典によると「広義には中国伝来の陰陽五行思想の日本における展開形態の総体。狭義には伝来の陰陽書を重視し、それを典拠に方術中心に修得実践を遂げた特定の人々を核として形成された民族宗教」とされています。

要は、中国から入って来た「陰陽五行説」が「神道」「仏教」「道教」や「天文学」などと混ざり、日本独特なものになったということです。

独特の変化を遂げたとはいえ、非常に重要な学問であることは間違いありません。季節の区切りである「暦」の研究は、天体の動き、すなわち天候の変化について研究することです。農作物を植えたり収穫したりする時期を左右しますし、天皇の儀式や政(まつりごと)を執り行う日取りを決めるための研究でもありましたから、平安時代には日本の政治の中枢的な官職にまでなっていました。

陰陽道の専門家、安倍晴明

日本で特に有名な「陰陽道」の専門家と言えば、安倍晴明です。映画「陰陽師」や漫画「孔雀王」で式神で鬼を使ったり、真言(しんごん/タントラ)を唱えて敵と闘っているため(笑)、呪術師のイメージが強いですね。でも実際の陰陽師は、暦についての研究、天気予報や吉日を出すのがお仕事なので、怨霊と闘っていたことはまず無いでしょう。

毎度思いますが、日本って何でも日本ナイズにしちゃうんですよね。恐ろしいw

暦(こよみ)

月日を表す「暦(こよみ)」は中国から伝来した「陰陽五行説」の元に生み出された「二十四節気(にじゅうしせっき)」が基本です。「二十四節気」とはお天気予報でよく耳にする「冬至(とうじ)」や「夏至(げし)」「啓蟄(けいちつ)」などのことです。

五節句

「二十四節気」に合わせて、特に重要な季節の区切りである「五節句(ごせっく)」も中国から輸入されました。日本では江戸時代にその日に大切な伝統行事を行うようにと定められましたが、明治に入りその定めは無くなりました。とは言え、祝日や国民の休日として残っています。

ちなみに五節句とは、1月7日「人日(じんじつ)」、5月5日「端午(たんご)」、7月7日「七夕(たなばた)」、9月9日「重陽(ちょうよう)」、そして今回のテーマである「桃の節句、ひな祭り」が行われる3月3日「上巳(じょうし)」の五つです。

勘の良い方はお気づきだと思いますが、すべて奇数です。中国では奇数は良いものと考えられていますが、奇数月の奇数日は「陽の極まった凶日」としてその日を忌み「祓え(はらえ)の儀式」を行うようになったようです。

「雛祭り」の由来

元は中国の「上巳の祓え」

中国の周の時代、旧暦3月の初巳(はつみ)の日は「邪気に見舞われやすい日」として忌み嫌われており、水辺で身体を清めて、邪気を払う桃の酒を飲む「上巳(じょうし)の祓え」という風習がありました。それが魏の時代になり、3月3日を「上巳の節句」の日として、日本へ伝わったと言われています。

「桃の節句」となった理由

桃の魔除け力については日本神話の「イザナミとイザナギ」の話として日本書紀でも触れられています。

火の神であるカグツチを出産する際に火傷で亡くなってしまった妻イザナミを連れ戻しに、夫のイザナギが黄泉国(よみのくに)へ行ったのですが、見ては行けないと言われていたにも関わらず見てしまった彼女の姿は、蛆がたかり、腐って恐ろしいもので、イザナギは逃げました。その際、追いかけて来た黄泉の軍や黄泉醜女(よもつしこめ)、イザナミに桃の実をぶつけて逃げおうせたという話です。この話が元で「桃には破邪の力がある」とされ、日本では「桃の節句」と呼ばれるようになりました。

この話を初めて聞いた時、子供心に「勝手に見といて醜いから逃げたイザナギって酷い(怒)」という印象が強いw

風習が合わさって生まれた「雛祭り」

平安時代の貴族社会に伝わった「上巳の節句」は、日本では「曲水(ごくすい)の宴」を開くという形になりました。「曲水の宴」とは造園の流水に酒杯を流し、自分の前を通り過ぎる前に「和歌を一句詠む」という貴族の遊びです。同時期、貴族の少女たちの間では紙で出来たお人形で遊ぶ「雛遊び(ひいなあそび)」が流行していました。そして「雛人形」になっていく「人形」もこの時代には生まれています。これら三つの要素が渾然一体となって「雛祭り」へと変化したのです。

雛祭りにまつわるお話

日米の友情人形

人気があった2016年のNHK朝の連続小説「あさが来た」にも登場した銀行の神様、三宅裕司さん演じる渋沢栄一氏には雛人形にまつわる話がありました。

2021年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け」は渋沢栄一が主人公です。友情人形について取り上げてくれたらいいのにな。

アメリカから届いた青い目の人形

人形師福田東久氏の著書「雛まつり 親から子に伝える思い」P20の記載によると、大正十三年(西暦1924年)の頃のアメリカは大恐慌のせいで反日感情が渦巻いていました。日本で暮らしたことのある宣教師シドニー・ルイス・ギューリックはその状況に心を痛め、日本の雛祭りに合わせて、アメリカ全土48州に呼びかけ、12739体の人形を集め、手作りの洋服を着せパスポートを持たせて船で日本に送ってくれました。この受け入れに活躍したのが渋沢栄一氏でした。渋沢栄一氏は、外務省と文部省に働きかけ、届いた人形達を全国の学校へ配る手配をし、雛祭りの当日には日本青年館で盛大な受け入れ会を開いたそうです。

日本からの「答礼人形」

勿論、受け取ったままでは終わっていません。受け取った学校の生徒1人1人に一銭ずつの寄付を募って集めたお金で、アメリカの全州に行き渡るだけの58体のお人形が作られて、贈られました。当時の公立小学校の教師の初任給が50円の時代に一体あたり350円の人形を作っており、相当な価値があると思われます。

その後の人形たちの行方

ちなみにこれらの人形達のその後ですが、日本とアメリカの間で戦争が起こった為に日本にやってきた青い目の人形の多くが焼却されてしまいました。しかしそれを忍びなく思った人達の手でひっそりと隠されて守られた人形もあり、その総数は2015年2月現在、331体あるそうです。日本からアメリカに贈られた人形は、行方不明や転売されたものを除いて47体が確認されているそうです。

恐ろしい雛祭り伝説

全国にある雛祭りにまつわるお話の中には恐ろしいものもあり、そのうちの一つをご紹介します。

沖縄や奄美に残る怖い話

駒沢女子大学教授千葉公慈氏の著書「知れば恐ろしい日本人の風習」によると、沖縄や奄美地方では3月3日には「浜下り(はまうり)」という習慣があり、その日は女性だけで浜辺で歌って踊ったり、お酒を楽しんだり、時には船遊びや潮干狩りを楽しむそうです。この間は決して男性に見られてはいけないし、家に残ってはいけないそうで、もしこの日に家に居ると蛇に襲われてその子を孕むという伝説があるです。

その昔、「浜下りの日」に家に居た女が「アカマタ」という蛇に襲われて交わって子を孕んでしまうが、潮水で身を清める禊を行って出産を免れたという話が伝わっているそうです。

上巳(じょうし)の「巳」は蛇ですから、やはり「蛇」と因縁があるんですね。

参考にした書籍

今回の記事を書くにあたり参考にした書籍は、人形師福田東久著「雛まつり 親から子に伝える思い」、国立歴史民俗博物館教授新谷尚紀監修「和のしきたり 日本の暦と年中行事」、國學院大学教授三橋健著「子どもに伝えたい日本人のしきたり」、駒沢女子大学教授千葉公慈著「知れば恐ろしい日本人の風習」の4冊の他、広辞苑等の辞書、wikipediaも参考にしました。私なりに細心の注意を払って書いたつもりですが、間違い、誤用等が全くないとは言い切れないので、その時はどうぞご容赦下さい。

これらの本はとても興味深く、尚かつ面白かったです。各家庭に一冊置いて行事があるごとに手に取って読み返したいものばかりでした。おすすめです。

日本製の雛人形、雛道具

日本製の雛人形、雛道具を探してみました。可愛らしいものが一杯です。

1万円以下の優しい価格のお雛さんたち

小さくて可愛いお顔の平飾り。

こちらは陶器製です。シンプルで玄関に飾ってもいいですね。

凛と立っているおひな様も素敵です。

1万円以上のお雛さん

花玉段雛5人飾りのお雛様です。

コンパクトでありながら可愛らしい雛人形セットです。桐の箱に収納できるのがいいですね。

久月さんのおひな様。まあ外れないですね。個人的にケース入りなのが手入れがしやすくて良いポイントだと思います。ホコリ対策大変ですから。

七段飾りです。これを飾れるような家なら飾りたかったなあ。

雛祭りを楽しみたい人に雑貨類

おひな様を飾るのはちょっと場所的に・・・な方や、お子様が巣立ってしまった方はこういうものでおひな様を楽しむのも良いですね。

おひな様をモチーフにした箸置きです。

場所がない人は、雛祭り柄のふろしきをタペストリーとして飾るのもアリだと思います。

最後にひとこと

長かった!

でも日本人なら知っておきたい話だし、伝えたい話です。今回勉強して「雛人形」をもっと大切にしようと思いました。しかし個人的には華美な雛人形ではなく、「流し雛」に重きを置きたい。

そこでメーカーさんにご提案。水に溶けて、しかも環境に優しい、いや、寧ろ環境を良くする素材で人形を作れませんか?もしそういう雛人形が出来たら、全国のあちらこちらの川で流せるようになるのではないでしょうか?それこそ、日本の環境を守る為の風習として大注目されるようになるかも!と思ったのですが。日本の技術と伝統を結集させた「水に溶ける環境良化雛人形」・・・無理か?

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